高校部(東進)
言葉とは
こんにちは、東進日野豊田校の藤堂です。
私は国語の先生なので、少し”言葉”について話したいと思います。
正確には、”言葉と認識”の話です。
今日のお話は全て私の見解なので、あまり鵜呑みにはしないでください。
言葉というのは暗号であり、本来の存在意義は伝達であったと考えます。
本来の存在意義が伝達であった理由は、
「人間が火を起こした時の活用法を身振り手振り以外で伝達出来たら楽だと考えた」
からだと思っています。
これは単なる例え話ですが。
言葉とジェスチャーの違いの一つに、残るか残らないかというものがあります。
ジェスチャーの残像は記憶に頼るしかありませんが(映像記録機器が無かった頃に
は)、言葉は残すことが出来ます。
書いたり、或いは刻んだり、ですね。
この言葉、即ち暗号が共通理解になれば、あらゆる伝達が楽になります。
火を目前にして近づいて火傷をする経験をしなくても、”危険”という言葉の共通理
解があれば、予め対策も練りやすそうです。
さて、ここからが本題で、言葉は我々に「それを認識させる」役割があります。
我々は空気中に窒素や酸素や二酸化炭素があることを知っています。
今現在身体中に纏わりついている「空気」は視認出来なくても窒素や酸素が包含され
ていることを知っています。
ただし、それに意識を傾けなかった時の我々にとってのこれらは「空気」でしかあり
ません。
何ならこれらは「空気」ですらありません。何でもないのです。
壁と床を我々は区別します。
建物を建てる時に区別する必要があったのか、或いは壁に猛進したら「ぶつかるか
ら」なのかどうかは分かりませんが
我々は壁と床を区別します。
上記二つの要因が無ければ我々は壁と床を分けて名付けることは無かったかもしれま
せん。
分けたほうが便利だから、分けているのです。
日々の生活で我々は果たして空気を分解するでしょうか。否、空気を吸っているとい
う認識すら我々は往々にして行いません。
国語という教科の本質は、この「分解」です。
空気に意識を傾けてみる感覚で、筆者の言葉の一つ一つを擬えてみましょう。
きっと面白いことが見つかるはずです。