コラム
水本代表、志學舎を語る②
塾の黎明期
こんにちは。志學舎代表の水本です。今日は7月7日。7月7日といえば、一般的には「七夕の日」。しかし私にとってはもう一つ。7月7日は私の誕生日でもあります。自分で言うのも何ですが、ラッキーセブンが2つも並んだこの日が誕生日なんて、自分は生まれながらの強運の持ち主に違いない、と昔から思っています。人生を振り返ると、決して平坦な道ばかりではありませんでしたが、多くの人々に支えられてこうして48年も学習塾を続けてこられたのですから、あながち嘘とも言えません。
さて、前回の続き。1年間ひたすら分数ばかりを教えた最初の教え子K君が友達を連れてきて次第に人数が増えていって部屋が手狭になったころ、たまたま私の家に来た新聞屋さんが、より立地の良いところを紹介してくれて、京王線の百草園駅の駅前にあったアパートの1室に移ることにしました。そこで「百草園駅前学習塾」という看板を初めて出しました。この時、家賃は月7,000円、月謝は4,000円でした。
当時はクーラーなど無く、最初の年の夏には、バケツに水を入れて、1クラス5~6人いた生徒たちはそこに足を入れて暑さをしのいでいました。夕方近くになると西日が差し込んで暑くなるので、雨戸を閉めて授業をしたものの、かえって部屋に熱がこもってしまって何とも苦労しました。
しかし翌年の夏、さすがにこのままでは暑くて子供たちも勉強どころではない、何とかしないと思案してクーラーの設置を考えたものの、建物に穴をあけてはいけない、と大家さんに言われてしまって設置できませんでした。それでも「何とかしないと」と考えて、秋葉原の電気街まで友人たちと行って、当時で12~13万円ほどした水冷式の冷風機を月賦で購入して、電車に乗って百草園まで運んできて何とか部屋に設置しました。子供たちが大喜びしてくれたのを今でもよく覚えています。
2年目には生徒数が40人を超え、駅前のアパートだけでは入りきらなくなったので、近くに住居兼教室の1軒家を借りて「分教室」を作りました。もはや「駅前」だけの教室ではなくなったので、塾名から「駅前」を取って「百草園学習塾」と改めました。やがて2つあった教室を1つにまとめて、百草園と高幡不動の中間、三沢中学校の近くの三沢交差点にある藤ビル1階を借りて教室を開きました。写真はそのころのものです。
こうして順調に発展していった「百草園学習塾」。しかし、このあとに一波乱が。「志學舎」誕生のきっかけともなるある出来事についてはまた次回に。
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