コラム
水本代表、志學舎を語る⓷
試練の時
こんにちは。志學舎代表の水本です。さて、今日は前回の続きから。
1977(昭和52)年に日野市の三沢中の近くに移転した「百草園学習塾」。その後も友人たちに手伝ってもらいながら順調に生徒数が増えていきました。日頃の授業だけでは物足りず、春と秋には子どもたちとキャンプに出掛けたりして、先生たちも生徒たちと真正面から向き合いました。
そして、さらに徹底的に生徒たちを指導しようと、第1回目の夏期合宿を開催。長野県の信濃大町近くの新行(しんぎょう)高原学生村の民宿に生徒32名を連れていきました。
なんと9泊10日。洗濯機まで持ち込んで衣類の洗濯も自分たち自身で行いました。
午前中は勉強、午後はバレーボールやソフトボール、夜はまた勉強。ある日には全員で歩いて青木湖まで行ってボートに乗って遊ぶなど、勉強半分イベント半分。10日間、外から電話がかかってくることもなく、100%全力で生徒たちと向き合えました。あまりのハードスケジュールで体調を崩す子も出ましたが、最後は全員無事に帰ってきました。子供たちの健康と安全に気を張り続けたせいか、帰ったあとには手の爪がガタガタになっていましたが、その時の充実感は忘れられません。以後、場所や形を変えながら昨年の4泊5日の志賀高原合宿まで連続42回。夏期合宿は志學舎の伝統になりました。
残念ながら新型コロナウィルスの影響で今年は中止になってしまいましたが、志學舎の先生方の生徒に対する熱い思いは今も昔も変わっていません。
こうして発展していった「百草園学習塾」。このころの私は、昼間は私立高校で数学の教員として働き、夕方から塾で授業をする日々。そんな私のもとに、ある日、一般企業を辞めて一緒に塾で教えたい、という友人がやってきました。彼を社員第1号として雇うことにして、時間講師として手伝ってくれていた他のスタッフとともに、昼間から塾の仕事をしてもらうことにしました。
そして、さらに塾を大きくしたいと考えて、年度途中に、京王線の中河原駅近くにもう一つ塾を開くことにしました。中河原に出す塾の名前に「百草園」と付けるわけにもいかないので、そちらの塾名を「秀英学院」として、新年度になったら、「百草園学習塾」の名前を「秀英学院」に統一させようと考えていました。百草園にとどまらずに塾をもっと大きくしたいと思っていたからです。
ところがある日。中河原の秀英学院を任せていた友人が「独立したい」と言い出したのです。しかも講師をすべて引き連れて。いつの間にか、昼間から塾にいる彼らと、学校勤務から夕方に戻ってきて塾で仕事をする私との間にすれ違いが生じ、時に経営者としてシビアなことを言う私に対する反発が出たのだと思います。何度も話し合いを繰り返したものの折り合わず、最後は半ば強引に彼らは出ていきました。中河原の塾は彼らに手放すことになり、私には百草園学習塾が残りました。
しかし、信頼していた仲間たちに裏切られ、「一体何のために塾をやっているんだろう」と一人悩み、ついには塾の解散を考えました。
どうなる、百草園学習塾? この続きはまた次回に。
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