コラム
後楽園球場ジャンボスタンド最上段 月1回の僕の定位置
志學舎本部の岩田です。引き続き小学校のころのお話。
まだ塾にも通っておらず、学校から帰ると毎日のように近所の小さな広場で自分や弟の友達といっしょに野球ばかりして遊んだ。
野球といってもゴムボールとプラスティックのバット、グローブは使わずに素手で。辺りがすっかり暗くなっても、母親が「ご飯だから帰ってきなさい」と呼びに来るまで。夢中になって遊んだ。
当時は、ほぼ毎晩7時になるとテレビの地上波で巨人戦が放送されていてよく見ていた。テレビだけでは物足りず、ついにはジャイアンツ友の会(巨人の公式ファンクラブ)に入会。毎月送られてくる後楽園球場(東京ドームができる前にあった球場)の外野自由席券を使って、月1回、後楽園球場に巨人戦を一人で観に行った。
それは決まって土曜日の夜、後楽園でナイターがある日。当時、土曜日は午前中で学校が終わったで、家に帰って昼食をとるとすぐに電車に飛び乗って水道橋駅まで行き、外野自由席の列に並んだ。2~3時間も並ぶと開門時間となって列が前に進み始める。そしてゲートに入場すると、普通の人は、より前例の良い席を取ろうと走ったりするのであるが、自分はというと。
いつも決まって向かったのが外野のジャンボスタンド最上段。ここが月1回の僕の定位置だった。選手は豆粒のようで、当然、顔などもわからない。でもここから見る巨人戦が好きだった。開幕2戦目、デーゲーム(昼間の試合)の横浜大洋ホエールズ(現:横浜ベイスターズ)戦で、巨人の背番号50・駒田のプロ初打席満塁ホームランも球場で見ていた。また別の試合では、エース江川が投げるとテンポよく進んで、午後6時に始まった試合は8時半すぎには終わった。当時は巨人戦のチケットはなかなか取れずに、試合はいつも超満員。あの熱気と歓声、オーロラビジョンやウグイス嬢の場内アナウンス、球場の雰囲気が大好きだった。
一人で観に行くぐらい夢中になっていた姿を見て、母が後楽園球場の内野指定席券を買ってくれたことがあった。秋口の消化試合だったが、母と叔母、いとこ達と一緒に初めて内野席で見る巨人戦は、これまた横浜大洋ホエールズとのデーゲーム。内野席で見て初めて気が付いたのは、いつも守備で座ってばかりいると思っていたキャッチャーが、相手打者が内野ゴロを打つと、一塁手のバックアップのために必ず一塁側に全力で走っていくこと。テレビ中継だけでは分からなかったことで、とても新鮮な思いだった。この試合は堀内が先発で投げ、巨人打線が爆発、リリーフ(救援投手)は江川だった。この試合で勝利投手となった堀内は通算200勝を達成し、名球界入りを果たすとともに、プロ野球を引退したのだった。
中学に入ると、志學舎に通うようになり、後楽園球場に野球を観に行くことはすっかりなくなってしまったが、少年時代に夢中になった思い出は今も色あせない。
あなたが夢中になったものは何ですか。
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