コラム
水本代表、志學舎を語る⑰
志學舎秀峰塾南大沢教室の誕生
こんにちは。志學舎代表の水本です。
前回のブログでは1989(平成元)年に秀峰塾を買収して「志學舎秀峰塾」となり、教室も高幡、南平、日野、豊田の4教室に拡大したころのお話をしました。この4教室はいずれも日野市内に位置していて、生徒数も多くなっていきました。
すると次第に、日野市内にとどまらずにさらに多摩地区の新興住宅地に教室を出したいと思うようになりました。そんな矢先、付き合いのあった広告屋さんから「八王子市の南大沢にある多摩修学院という塾が閉鎖を考えていて引き受けてくれる塾を探している」という情報が。京王線の南大沢駅が開業したのが1988(昭和63)年。ちょうどそのころ多摩ニュータウン開発の一環で南大沢周辺にも大きなマンションや住宅が次々と建設され、さらには1991(平成3)年に東京都立大学が誘致されたり、1992(平成4)年には駅前に総合スーパーの忠実屋や百貨店のそごうが出店したり、と、南大沢がまさに新興住宅地としてこれから発展していこうという時期でした。
そんな1991(平成3)年の春、街の将来性も考えて多摩修学院から南大沢教室を営業譲渡してもらい、初めて、日野市の外に教室を持つことになりました。最初の年は旧多摩修学院の社員や講師がそのまま残る形でスタート。生徒は30名ほどでした。
しかし、ここでも、以前に秀峰塾を買収した時と同じようにいろいろと苦労しました。たとえば、前の塾では送迎用バスで少し離れたところに住んでいる生徒の送り迎えをしていたのですが、それを廃止。生徒の指導方法や合宿の実施など、志學舎流のやり方がことごとく通用しない。しかも、日野市とは違って南大沢では志學舎はまったくの無名。さらにそのころは南大沢にあまり塾が無く、地域に住む生徒の多くは2つ隣の特急が停車する多摩センター駅まで出ていました。おまけに当時の志學舎秀峰塾南大沢教室の場所も今とは違って駅からちょっと離れてバス通りからも道路1つ奥に入った視認性の低いロケーション。とにかく生徒がなかなか集まりませんでした。
手をこまねいてばかりはいられません。何とか視認性を高めようと、大通りに面した他人の家の塀に塾の看板をつけさせてもらったりもしました。また、南大沢でも中学受験科を大きくさせたいと考え、教育熱心な層を取り込もうと、その前段階の幼児向けの能力開発教室(エジソンクラブ)や英会話教室も開設しました。私自らこれらの新しい取り組みを試みて南大沢教室の運営に直接あたりましたが、それでも思うように生徒数が増えません。
<当時作った看板設備は今もなお健在です(いまは別のテナントさんが使っています)>
そんな中、私自身に思いもよらぬ事態が。持病でもあった鼻の蓄膿症が悪化。ついに手術が必要となり、1か月ほど入院することを余儀なくされました。こんな状況の中で1か月も現場を離れなくてはならなくなったのです。果たしてどうしたものか。続きはまた次回に。