コラム
梅花の候②
拝啓 梅花の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。
前回は、万葉集の時代、日本では「花」といえば香り高い「梅」を指すことが多く、それは「遣唐使」によって中国からもたらされた影響だったことを書きました。しかし、やがて「花」といえば「桜」に変わっていきました。その大きなきっかけとなったのは。
そうです。「遣唐使」が廃止されたのです。894年、当時の天皇「宇多(うだ)天皇」の時、「菅原道真(すがわらのみちざね)」の建議によって遣唐使は廃止となりました。すでに中国の唐も末期を迎えており、内乱などによって衰退。さらに、当時の航海はとにかく危険で、優秀や人材を失う危険を冒してまで学ぶべきものも少なくなったためです。
それと前後して、平安時代の日本では「国風(こくふう)文化」が急速に発達します。中国の影響が薄れつつ日本独特の優雅な貴族文化が発達。かな文字が生まれ、「源氏物語」(紫式部)、「枕草子」(清少納言)、「土佐日記」(紀貫之)、「竹取物語」、「古今和歌集」などの文学、十二単(じゅうにひとえ)などの女性装束、大和絵(やまとえ)と呼ばれる日本風の絵画、寝殿造りという建築様式など、日本独特の文化が花開きました。
日本にも古くから「桜」はあったのですが、「観る」というよりも神様が宿る木として「祭る」対象だったとか。それがこのころから「花」といえば「桜」という風潮が浸透していったようです。この時代の「古今和歌集」では「梅」よりも「桜」を詠んだ歌が多くなりました。有名なところでは、
「久方(ひさかた)の 光のどけき春の日に 静心(しづごころ)なく 花の散るらむ」
(紀友則)
(現代語訳)
日の光がのどかな春の日に どうして落ち着かなげに桜の花は散っていくのだろうか
その後、時代が下るにしたがって、桜の花見文化は、貴族から武士へ、そして江戸時代後期になると一般庶民にまで広がっていたそうです。
三寒四温の今日この頃、風邪など引かないようご注意ください。
令和3年2月吉日
【追伸】
遣唐使廃止の建議をした菅原道真。その後、右大臣まで出世したものの、政敵の策略により九州の太宰府に左遷されます。都を去る際に詠んだ歌がこれ。(『大鏡』より)
「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
現代語訳:春になって東風が吹いたならば、香りだけでも私のもとへ届けておくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、春を忘れないように。
ここで登場する「花」は「梅」です。もう見ることができない自宅の庭の梅の木に向かって、「東風が吹いたら、京の都から遥か西方にある九州の太宰府まで梅の香りを届けておくれ」とは何と無念であったことでしょう。
その後、道真は都に戻ることなく太宰府で失意のうちに生涯を閉じますが、幼いころから学問や和歌で才能を発揮したこともあり、やがて「学問の神様」として信仰されるようになりました。受験生が合格祈願に訪れる太宰府天満宮や北野天満宮、この近くでは国立市にある谷保(やぼ)天満宮、あるいは亀戸天神や湯島天神など各地の天満宮や天神が菅原道真を祀(まつ)る神社としていまも残っています。
<谷保天満宮の絵馬>
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