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マプマプの実
こんにちは、志學舎豊田教室の土井です。
先日のブラタモリで、江戸城がロールケーキの一番おいしいところ、みたいな表現がされていたので、休みの日にロールケーキを食べました。
内堀おいしかったです。真ん中の江戸城は抹茶クリームでした、苦みがあった。
さて、休みの日にぼつぼつと調べながら、江戸時代に刊行されている地図についてふと思うことがあり…
・地図の作者は改版等で複数の地図を作成している。
・版元も複数の地図を刊行している。もちろん改版とかもある。
これをぼんやりと考えていた時に、そういえば通称:明暦図の『新添江戸之図』の太郎右衛門はどうなんだろう?と思い立って調べてみました。
たとえば、前回の記事で一人うはうはしながら調べていた浅草瓦町の表紙屋市郎兵衛のお店は約12年。
同時期に華の元禄時代の地図刊行を支えた、林吉永のお店は約15年。
どのお店も一代が頑張って地図を刊行していたのかな?という感じもします。
ちなみに江戸日本橋南二丁目の大経師加兵衛のお店は21年と結構長い。
一方で、明暦図の太郎右衛門さんはどう探してもあの『新添江戸之図』しか見当たらない。
『日本書誌學大系11 江戸図総目録』をひもといても、太郎右衛門さん刊行の地図については「明暦大火直前の図。北が上部となる唯一の江戸図」という記載にとどまります。
ここで、版元である太郎右衛門さんは明暦の大火の被害者かもしれない、とふと思って青ざめました。
かもしれない、でガッカリしてもしょうもないので、改めて講談社現代新書、黒木喬さんの『明暦の大火』をひもといてみました。
太郎右衛門さんがいたのは、刊記より日本橋二丁目、日本橋のすぐ南の区画だったとわかります。
この区画は昔も今の地名に大きな変更はないようです。
さて、本の中では火の手がどのように進んだのか、そしてどこが大火で燃え尽きた範囲なのか、という図が載っています。
本郷から冬の冷たい風によって運ばれた炎は、駿河台の地形によって二手に分かれながら日本橋のある区画(上のヤフー地図さんの掲載範囲)も焼き尽くしたようです。
ひとつは京島の方まで、もうひとつは隅田川を超えた深川の一部も焼いたようです。
霊巌寺も燃えてしまい、その後現在の場所に移転することになりました。
橋が焼け落ちた、あるいは橋がなくて逃げ場を失ったおびただしい数の人が犠牲になったようです。
木造家屋が密集していた江戸では、一度火の手が上がってしまえば甚大な被害が出てしまいます。
本文の見出しに「日本橋 火の海となる」と書かれているのを発見して、そっと本を閉じました。
今回、太郎右衛門に関しては
・明暦三年の正月に北を上部におく、縦長の斬新で美しい地図、通称「明暦図」を刊行した。
・しかし、その後すぐに明暦の大火に巻き込まれ、日本橋二丁目にあった店は焼失した。
・明暦の大火は延焼範囲や死者数が江戸時代最大の火事である。
・太郎右衛門の名前をもつ地図は、「明暦図」以外に現存していない。
以上のことから、太郎右衛門さんは、明暦の大火で亡くなった可能性が高い…という結論にいたりました。
太郎右衛門さ~ん……(涙)
もちろん、罹災は確実である一方で生き延びた可能性もあるのですが、こんなにも写図が残っている素敵な地図を刊行した版元が、一回こっきりで終わってしまうのはあまりにも不自然ですからね…。
もしかしたら地図ではなく、別の絵草子やなにかをガンガン売り出して元気にやっているかもわかりません、これは今と調べ方を変えないとわからないので何とも言えない。
なんというか、調べたり考えたりしながら、知人を亡くしたかのような悲しい気持ちになりました。
300年以上も昔の人に「生きていて欲しい」と思うのは時代錯誤もはなはだしいのですが…。
今度回向院に行った時には、太郎右衛門さんのために手を合わせたいと思います。
全体的には悲しい話ではあったのですが、なんとなく希望も出てきました。
以前、東洋文庫ミュージアムにて、太郎右衛門版の『新添江戸之図』と京都の版元が売り出した『新板武州江戸之図』ですが、二つの絵図は刊記がそっくりというのをお伝えしました。
今回改めて全体図を眺めて、地図の上部にある題名の枠がそっくり、という特徴も発見しました。
町の描き方や石垣なんかも似ていなくはない?
角度を90度回転させれば同じ部分がたくさんありますが…まだ断言はできない。
太郎右衛門のお店はなくなったとしても、地図の作成者が生きていたのかもしれないし、京都の版元の方々が「明暦図」を手本として、新しい情報を加えながら使いやすい地図をうみだしたのかもしれません。
これは嬉しい。
もっと二つの図の共通点や特徴を洗い出さねば。
さらに、京都の版元は、いくつか文献や地図の所在などを調べるうちに、京都の河野道清という名前にたどり着きました。
この河野道清さんは寺町(五条寺町?)や六条新屋敷萬屋町と移転しているようですが、明暦の大火を記した浅井了意の『むさしあぶみ』の版元でもあることも判明しました。
『むさしあぶみ』の刊行は萬治四年(1661年)、はっきりと刊年がわかっている『新板武州江戸之図』で一番古いものも萬治四年の刊行となっています。
一つの事象を調べていくうちに、いくつもの糸でつながっていることを発見するのは非常に興味深い現象だなあと改めて思いました。
夏の間にもう少し調査してみたいと思います。
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[開設コース:中学受験部(小学生)/高校受験部(中学生)/進学個別アイウィル] 志學舎 豊田教室 教室長 西尾宣昭
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